彼のことをサルージャ殿からアリババ殿と呼ぶようになる頃、自分はすっかり彼のテリトリーに入ってしまっていた。というのもあの日、初めて会った日からマンションでも学校でも顔を見ない日は無く…自然と日常生活を垣間見ることになるのだが、観察していると分かる彼の杜撰というか雑過ぎる生活能力に頭を抱えるしかなかった。別に彼は炊事洗濯等の家事が出来ない訳でも整理整頓が苦手な訳でも無い。むしろ三年以上もの一人暮らしからより良い知恵方法すら身に染み付いている位だ。しかし、あれからあちこち引っ張られて休みの日には一緒に遊びに行ったり部屋に招かれ招いたりしている内に一つ分かったことがある。それは彼が自分自身に対して非常に無頓着だということだ。やれアイツがどうのしていてコイツはこれに困っていて…他人のこととなるとやけに真剣に考え出す癖に、自分のことは放る彼。俺のことだって慣れない環境に早く順応出来るようにと外に引っ張ってくれていたのも分かっている。近場にある店について道中細かく説明して貰った記憶はまだ新しい。彼だって卒業レポートや課題等で疲れている筈なのに。彼が人に頼まれるまでもなく自ら背負い込む性質なのはきっと生来のものだろう。気にするなって俺がしたいだけだから…笑いながらそう言われてしまえばなんてお人好しなんだと呆れてしまうのも無理からぬことだろう。



「はくりゅー」
「何ですか」
「それ取って」
「どうぞ」
「さんきゅー」

気遣いをただ黙って受け取るだけなんて我慢ならなかった自分は、それとなく忙しい彼に提案を持ちかけた。

「あー…お前本当料理上手いな」
「お粗末様です」

それというのも予定が合う日や彼が忙しい時には自分が食事を作るというものだ。出会った日も部屋を片付ける彼の傍らで不用意に物に触れない自分は、突っ立っているだけよりはとあり合わせだがキッチンで数品作らせて貰った。その時やたらと料理の腕を褒められ、何でお返ししようと考えた時に真っ先に思い付いたのがこれで。断られるかもしれないと思いつつもそれを伝えると、最初は戸惑ったようだが最後にはじゃあ頼んでいいかと微笑んでくれた。あれから2ヶ月経った今、こうして彼の部屋で過ごす事はすっかり日常の一コマと化している。

「お前料理も勉強も運動も出来るから絶対モテるだろ」
「…まあアリババ殿よりはモテるんじゃないですか」
「よっしゃ表出ろこのやろう」

どうせ俺はモテませんよーとウジウジし出した彼を鼻で笑う。女性はどうか知らないが、彼はいつも多くの人に囲まれている。以前に学校で友人であろう人達と肩を組んでふざけあう姿を見た。弾けるような明るい笑顔は俺の胸中に薄暗いモヤを広げた。何故か彼の一挙一動によってそういった感情の波に度々襲われる。何となしに相談した知り合いには恋じゃないのかと投げやりに言われたがそうではない。そういう事では無く、消化出来ないこのわだかまる気持ちの悪さは…、




「白龍?」
「ッあ、」

沈んでいた意識を引き上げれば、目の前には心配そうにこちらを見詰める琥珀の瞳。何でもないと首を振るが彼の表情は曇ったままだ。

「…なあ白龍」
「何ですか」
「お前さ、無理してるだろ」

全てを見透かすようにジッと据えられた双眼に、内部が乾いてくるような錯覚を起こす。

「な、にを」

何を言ってるんですか、そんなわけ無いでしょう。
軽く笑い飛ばすには間が開きすぎた。カラカラと水分を無くした喉が痛い。

「いーよ、もう」

無理すんな。
小さく落とされた微笑は寂しげで、心臓を掴まれたような感覚がした。

「お前聡いからな…気付いてるんだろ?俺の違和感」

(どうして、笑うんですか)

声にならない呟きが脳内で反響する。ゴクリと無理矢理嚥下を行い、唇を開いた。

「アリババ殿には何か隠していることがありますよね」
「あるよ」

あるよ。
どこか冷えた声音に背筋が震える。

「あー…悪い、そんな顔するなよ」

くしゃりと困ったように表情を崩し、ごめんな怖がらせたか?と優しく頭を撫でてくる彼の手も少し震えていて。それでスッと心が落ち着きを取り戻した。

「いつも感じていました。アリババ殿の心は常に別へ向いています」

“今”ではない“どこか”
いや、もしかすると、

「もしかして失恋でもしたんですか」
「……はは、お前本当」

(“誰か”、か)
苦く笑う姿に確信を得る。彼は日常の中で笑わない時など無いと言える程によく笑っている。しかし自分はずっと違和を感じてならなかったのだ…彼の笑顔の裏に潜む陰に。誰と何をしていても(俺も勿論例外ではない)中身無く空虚なまでの貼られた笑顔。俺はそれに内部をかき混ぜられるような不快感と気持ち悪さを降り積もらせた。


「そ、失恋したんだ」

月並みな理由なんだけどさ。

「言いふらすような事じゃねぇし黙ってたんだけど…お前時々変な顔するからこれ気付かれてんのかなぁって」

俺の周りで気付いたの、お前ともう一人だけなんだぜ。聡い奴だ本当にと眉を下げる彼は、遠くを見るように視線を放った。

「ずっと好きでさ、だからフラれてからどうしても気持ちが浮上しなくて…だからってあからさまに学校休んだり落ち込む訳にもいかないだろ? 」
「今も好きなんですか、その方のことを」
「うん、そうだな。たぶん」

好きだから、こんなに悲しいんだろうな。
やっぱりこの人はバカだ。バカだとそう思った。

「なる程、そうですか。スッキリしました」

ハァーッと深く息を吐き出す俺をキョトリと見る彼に、先程までの昏い憂いは見られない。

「勘違いしないで下さいね。俺はアリババ殿の表裏の違和が気になっただけなので」

勿論言いたく無いことだったならすみません、ですがいつまでも見て見ぬフリをするのもお互い疲れるでしょう。
事実彼は俺の含む感情を確かに見透かしていたし、俺も聞けるものならば聞いておきたかった。それなりに相互築かれた関係の中、いい加減聞いても構わないだろうとも考えていた。だから彼から切り出されてちょうど良かったといえる。そう、だから、

(貴方自身に踏み込むつもりは無い)

そう言葉の裏に含ませた意を彼は理解したようで、泣きそうに微笑んでみせた。

「年上の威厳も何もねぇな」
「安心して下さい、アリババ殿には威厳なんて初めからありませんから」
「…いつも思うけどお前俺のこと嫌いなのか?」

辛辣だとぶすくれた彼に淹れ直した茶を差し出しながら、静かに心奥で安心する。

(きっと彼は選択を一度でも間違えてしまえばすぐにでも消えてしまう)

切られてしまえば戻らないであろう縁。人を視るこの人は、俺が少しでも退く気配を見せれば途端に関わりをブッツリと断絶するに決まっている。それは嫌だとぼんやりながらも感じてしまう位には彼との時間は心地良い。素直に言うなら惜しいのだ。距離を測ってくれる彼は、いっそ繊細なまでに相手を大切にする。だからこそ彼の周りには人が集まるのだろう。

(自分もその中の一人なだけだ)

いっそ鈍くあれば何も知らぬままに彼が自然に卒業するまで楽しく過ごせたのか。だが何度考えようともそう在る自分なぞ好きにはなれない。ならばもう終わったことだ、諦観にも似た感情を形作って蓋をしてしまえば良い。

「明日の朝は和食で良いですか」
「……ん、楽しみにしてる」

我ながら愚かで可笑しな交わりだったと思う。彼は俺なんて見捨てることは無くとも簡単に離別出来る相手としか見ていない。彼はだってその綺麗な瞳に酷薄なまでに一人しか映していないのだから。

(嗚呼、そういえば)

そうだ、もう一つ。



(他人のために心を砕けるこの人が好きになった人)


どんな相手なのだろうかと描くも、終ぞそれだけは聞けなかった。